類型の反復

「彼らは行儀のいい俗物である」

とか、

「関西に来るのは概してスペックが落ちる」

とか、

という経験則があって、だから東大生にすがっているだけじゃダメなんだよね、と繰り返し思わされるわけだが、メッキがはげてそういうことがわかってくるにはしばらく時間がかかって、もう手遅れであることもしばしばであり、だからこそ、「若い人は誉めて育てる」(新しい講座の開設とかで張り切ってはるから、あとは、気持ちようやってもろたらええんとちゃいますか?)とか、「いい大学を作るには300年かかる」(わしらの代も、またあかんかったけど、これだけは申し送りしておきましょう)とか、という格言が生まれるのであろう。

「在職中は融通の効かない朴念仁で、どうしようもないと言われていたけれど、スパっと辞めて、定年後の身の処し方は立派だった。こういうところは後進に見習ってもらったほうがいいね。世の中には、元京大教授ということで、未練がましく上から目線のおじいさん、とかいるからね」

等々、何がどう幸いするか、わからないものである。

誤作動と機械運用のリテラシー

20年前に作られたプログラムが誤作動もしくは現在では不便な動作をしてしまうのだが、修正しようにもバイナリーがあるだけでソースコードが失われており、既に製造中止で部品を交換することもできない。

そういうことは、まあ普通に起きる。

例えば、20年前1990年代の大学生・大学院生が学んだ環境は、教員スタッフが代替わりして今は存在しなかったり、その人が「心の師匠」と私淑した学外の団塊おじさんは、もはや、事実上引退してしまっていたり、その当時の社会風俗、大学生・大学院生が夢中になったアニメとか?も、今では過去のエピソードであったりする。

そんな20年前のプログラムが、ありもしないところに「権威」を検出してしまうのは、さしあたり、設計当時はそれでよかったかもしれないけれど、今はそれでは通用しなかったりする。

それは、ごく普通に機械の問題、機械とはそうしたもの、なわけだが、もし、そのような機械の判断を「現に今もこの機械は動いているのだから、この結果を誤りであるとはいえない」と言い張るのは、そのように言い張る人間の問題だろう。

しかもそれは、1990年代に大学生・大学院生として学んだ世代や集団に共通する問題であるというよりも、「機械」(「学問の日本語」や「行政の日本語」も、人間にとって一種の機械である、と見る立場は十分あり得る)のリテラシーが低いその個人の事情に分類されそうだ。

ご意見伺い

こちらか会いに行かなくても、向こうから会いに来る、というケースがないとはいえない。

現場担当者クラスの誰かが何らかのルートで、こいつは何だ、と調べたことくらいはあったかもしれない。

そして、「これは会わなくてもいいな」と判断されて今日に至る、ということなのではないか。

続・ロングシート問題

阪急電車では、ロングシートを「3+2+3」人がけに仕切った車両が導入されつつあるようだ(特急も各停も)。

こうなると、ロングシートに「詰めれば9人座れるのに7人しか座らない」問題に沿線の階級格差を見いだす流言が消滅してしまいそうなわけだが、階級格差を見いだした人たちは、この対応をどう考えているのだろう?

そして私は、ついでに是非とも教えて欲しいことがある。

  • (a) ロングシートに詰めて9人座らないのは阪神間近隣住民の嫌なところであり、階級格差の表れであると主張する人
  • (b) そんな単純な話なわけがあらへんがな、と取り合わない人

という意見の相違において、この(a)と(b)は、

http://togetter.com/li/966671

上のリンク先における「詭弁家」と「研究者」のそれぞれどちらに相当すると、あなたは考えるだろうか?

私は、(a) ロングシートに階級格差が現れる説=「詭弁家」、(b) んなわけあるかいな説=「研究者」という風に対応づけることができそうだと考えているのだが、

増田聡先生やその世代の方々の、故意なのか故意でないのかわからないけれど妙に乱反射しているように見えてしまう発言の数々を見ていると、

(a) ロングシートに階級格差が現れる説こそが人文学の良心であり、(b) んなわけあるかいな説こそが「デマ」である

と考えているようにも見える。つまり、人文学とは詭弁である、と言いたげであるように見えてしかたがない。

実際のところ、あの人たちの思考回路は、どこに何がどういう風に接続しているのでしょうか?

「青春」という方法

「今までの自分をリセットします」

という趣旨のコメントをしばらくタイムラインの冒頭に掲げていたので、受賞と渡英を機に、今までへその緒のようにくっついていた音楽美学の看板をリセットしてゼロカウントにして、これからは感性学とゲーム研究で行きます、ということなのかと思っていたのだが……、それにしては、むしろ「リセット後」の現在のほうが、これまで以上に、音楽美学時代の友人や後輩に直情的にコミットするようになって面食らう。

どうやら、リセットの意味が違っていて、就職から2015年に至る日々は「本当の自分」じゃなく色々なこともやらされたけれど、そういうのは全部なかったことにする、そしてこれからは、学生時代と現在を直結した「方法としての青春」でいきますよ、ということであるらしい。

だから、エリート校の一部集団が徒党を組んで学内をオラオラと闊歩するかのような振る舞いも、これからは遠慮なく復活しますよ、ということになるようだ。

ま、いいけどね。

私には、それは「青春の普遍化」(シューベルトはしばしばそういう風に受け止められる)というよりも、「制度としての学校」(そこには歴史の産物に過ぎないものが色々含まれる)へのノスタルジックでファナティックかもしれない無上の愛の表明に見えるけれど。

「青春」という方法が、加齢につれて、次第に、「回春」へと変容するプロセスを生きる道を私は選ぶ、ということなのでしょう。学生時代、修士の最初の頃に着目していたのが「ヘーゲル左派のアナーキーとしてのハンスリックの青春」で、さらにその前の学部時代はジョン・ケージの人だったらしいですし。


(ちなみに、コンヴィクトという学校を出たあとで、フランツ・シューベルトは「誕生」する。彼はサリエリ先生やシュパウンとの関係だけで生きていたわけでは、もちろん、ない。)

「無言の呪い」

「席を詰めてもらえませんか?」と一声かける前にツイートで呪いの言葉を発信するのは、コンビニの冷蔵庫に入り込むアルバイト店員(すでに根絶されたと伝えられる)に似ている。

これがあくまで類似の指摘に過ぎず、それ以上の何かの意味や効果を生成する意図がないことは言うまでもないし、何がどう似ているのか、似ていないのか、解析はSNSに人生を委ねた者たちに任せる〔=集合知〕。

ロングシート問題

そもそも論で言えば、電車の9人がけのロングシートに7人が隙間を空けて座っていて、こっちは疲れてヘトヘトなので詰めて欲しい、と思ったら、「詰めてもらえませんか」と声をかければいいのに、と思う。

それを黙殺されたときには、「この路線の利用者は有意にわがままである」と断言していいかもしれないが、声をかけずに、あとでこっそりつぶやくのは、いい大人が何をイジイジしているのか、ということだと思う。

それはともかく、阪急神戸線の高速列車に人がゆったり座りがちなのは、始発終着駅の梅田で、ピストン運行するロングシートの車両が発車の10分以上前からホームに止まっているせいじゃないかと思う。

18時発の電車が混んでいたら、向かい側の18時10分発に乗って座ろう、と思うことがある。で、座って待っているうちに電車が混み始めるわけだが、そこで居眠りしちゃったり、何かに夢中になっていると、席をつめずにそのままになりがち。

乗り慣れていると、今は空いていても発車時には、(あるいは十三あたりで)混むことになるので、最初から間を空けずに座ろうと思うけれど、電車というのは色々な人が乗りますからねえ……。

最近は、9人がけを2人か3人分で区切った車両も走っているので、壇ノ浦などと言わなくても、鉄道会社は気付いているんじゃないだろうか。

(むしろ最近の若い人のなかには、前の席が空いていても立ったまま、という光景もしばしば見かける。あるいは、ドアの近くに溜まって奥に詰めない、とか。むしろ率先して座ってくれたほうが空くのに……と思ったり。ヒトの行動は色々ですよ。)

ちなみに、京都線の特急は2人がけのクロスシート車両が多いので、この種の問題が出てきにくい。

宝塚線は、特急もロングシートだが、十三の次の駅は豊中で、駅間が短いので、たぶん、乗客が「呪いの言葉」を思いつくまえに次の駅に着いてしまう。

あと、阪急京都線や阪神電車は大阪の地下鉄と相互乗り入れしているので、終着始発駅特有のゆったり感がない、ということもありそうだ。

以前から増田先生は阪急神戸線がお好きではないようだが、「近隣住民の生活水準が鉄道のマナーと相関する」という彼の説は、階級対立を、存在しないところに捏造している疑いがある。阪急神戸線は、ロングシート車両を終着始発駅のある路線でピストン運用する際の問題点が露呈しやすい特異な場所ではないか、ということです。

(以上、20年来、阪急神戸線を梅田始発で利用している白石知雄の現場報告です。2015年度はラッシュ時の出勤もたっぷり経験しましたし、夜は演奏会の往復で通勤通学とは逆向きの路線を使うこともしばしばなので、割合多様なサンプルを収集している気がします。

関西の鉄道事情を知りたかったら、今日は京都、明日は神戸、後期は奈良の大和高田、みたいにかけもちで仕事をしている非常勤の先生にお尋ねになるのが早道だと思います! 若い人は、研究会でさらにあっちこっちの電車やバスを使っているはずですし。)

「その話はあとにしてくれ」

明日までにこの書類を仕上げなければいけない、と徹夜で事務仕事をしている大学教員のパソコンに、Microsoft Officeのソフトウェアが、「1件のアップデートがあります。今すぐ更新しますか? はい/いいえ」みたいなダイアログをポンと出したとしても、たぶん、その先生は、「いいえ」をクリックするだろう。

熊本に自衛隊が出動する姿を映し出すニュース映像か報道写真を見たデザイン関係の先生が、「これは見栄えが悪いから、こういう風にしたらいいのに」と思いついて、それを進言したとしても、それはやはり、MSのアップデートの「いいえ」と同じように扱われても仕方あるまい。

たしかにそのような経験は、「世界」について、「今まで体験したことのない何か」をその先生に開示するかもしれないけれど、そこで開示される何かは、飛び込みで営業するサラリーマンが、「どんなにいい製品でも、売り込みにはタイミングというものがあるんだなあ」ということを身体で覚える、とか、そういうのに似た何かだろうと、普通は考えるんじゃないだろうか。

俗世は学者の金言に耳を貸さない、と日頃から不満を募らせている人が、一番悪いタイミングで何かを発言してしまって、「やっぱり世間というものは……」という風に不満がループしてしまう、ということになるとしたら、それは自虐だろうと思う。

(デザイン関係の先生であれば、「制服」は効率・効用だけで決まるものではない、ということを、おそらく平常時であれば、デザインの基本設定としてお考えに入れていらっしゃるに違いないはずで、やはり今は何らかの動揺(少し落ち着かれたほうがいいかもしれないような)のなかにいらっしゃるということなのかなあ、と、僭越ながら思ってしまうのですが、どうなのでしょう。)

「京都ぎらい」

元暦期におきた出来事

  • 元暦2年(寿永4年)2月19日  屋島の戦い
  • 元暦2年3月24日  壇ノ浦の戦い。平家が滅亡
  • 元暦2年7月9日 元暦大地震は京都盆地北東部を震源に、マグチュード7.9と推定されている[1]。

脚注
[1] 水野章二「中世の災害」/ 北原糸子編著『日本災害史』吉川弘文館 2006年 148ページ

元暦 - Wikipedia

千年の都は、831年前(1185年)に地震が起きている。方丈記だ。

また、「美術品があったから空襲を免れた」という美術評論家八代幸雄(作曲家矢代秋雄の父)の俗説は、既に否定されている。

その一方で、一世を風靡したプレート・テクトニクス理論が盤石なのか、科学としては諸説があっても不思議ではない。

「起きたこと」と「解釈」を分けること。この原則は、たとえ着の身着のままになっても持ち歩くことができるはずなので、捨てないようにしたいものだ。

「AはBである」という記述(graphein)から、既に解釈は始まっている。

そしてさらに言うなら、マグニチュード7クラスの大地震であっても、この国の「全体」が一斉に揺れるわけではない。この列島はその程度には広く、「国民」をいかに統合しようと望んだとしても、被災者とそうでなかった者の区別はなくならない。そして、「被害に遭わなかったこと」に何らかの積極的な根拠を求めるのは「なかったことの証明」、いわゆる、悪魔の証明である。

(大陸に近い九州あたりではなく、奈良や京都の盆地に都を構えるほうが具合がよさそうだ、と考えた古代の人たちは、なかなかいい選択をした、と言えるかもしれないけれど、そこに virtual な「根拠」を設定するのは、たぶん「悪魔の誘惑」だと思う。)

宙づりに耐えることができなくなったとき、人の心は、限りなく「死んでいる」。たとえば、「近代」の入り口と言えそうな18世紀から19世紀への転換期の sublime をめぐる議論は、たぶんそういう理路で、信仰(普遍)と現世(偶有)の関係をコペルニクス的に「回転」させたわけですよね。そしてそれから100年くらい経った頃、「新しい体制」が出現したときに、政治の美学化とか、美学の政治化とか、というような議論があった。で、さらに半世紀して、「短い20世紀」はもう終わりであるということで、情報を操作・媒介する「新しい技術」がさかんに点検されて今日に至っている。

私たちは、「美しく死ぬ」ことのできない世界を今日も生きているのだということに、そろそろ慣れていい頃合いなのではなかろうか。おそらく「冬の旅」の結末のあとにハイネ歌曲が来て、そこで生命が尽きたシューベルトもまた、そのようなヴィジョンを提示していたと思うのだが。

(吉田寛先生も、そしておそらく私も、世界認識がどうであるかということとは別の話として、特にどうということなく「普通に死ぬ」可能性が高いだろうなあとは思うけれど。)

京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)

不正確な引用

このブログ記事は、どこまでが「東京新聞」の引用で、どこからがこのブログの書き手の地の文なのか、判然としない。

このような不確かな情報源をもとに、大学教員が脊髄反射でコメントを出すのだから、ツイッターとは嘆かわしい場所である。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/c42f33781e6eb85ebd4d789c29452d78

ツイッターに書く人間の「自己点検」と「外部評価」が望まれる。

無駄と勤勉

私には、「無駄」という語を彼がどういう意味で使おうとしているのかわからない。

また、「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という論法が、無為自然の道教の亜流なのか、ムーミンに出てくる「無駄じゃ、無駄じゃ」の哲学者の口まねなのか、といった系譜を判定することもできないが、

「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という主張は、「私は無駄なことをやることこそが必要だと考える」という主張と組み合わせると、どういう結果が導かれるか、ということはわかる。

もし、あなたが「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という前提から、「ゆえにすべては無駄である。だから何もしない」という結論を導きだした場合、何もしないのだから結果は「無」であり、「事後の吟味」という手続きが消滅してしまう。つまり、「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という主張は、この場合には「私は何もしない」というサボタージュの宣言になってしまい、「無駄なことすらしない」ことになってしまう。

もし、あなたが「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という前提から、「ゆえに、私は事前の吟味を放棄する」という結論を導きだした場合、あなたは、「事前の吟味」という「無駄」を排除しているのだから、せっかくの「無駄」をやらなかったことになる。

あなたが「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という前提と、「私は無駄なことをやることこそが必要だと考える」という主張を両立させようとしたら、「ゆえに私は、それが無駄であると考えるからこそ、事前の吟味を行う」という結論を導くしかなくなる。

どういうことかというと、

「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」

という一見、あなたを面倒から解放することに役立ちそうな着想と、

「私は無駄なことをやることこそが必要だと考える」

という、これも一見、面倒から逃れるための指針になりそうな主張の組み合わせは、実は、あなたを「勤勉」の側に引き戻すイデオロギーに帰結するのではないかということです。

たぶんこれは、頓知の定式化で切り抜けるられる案件ではない。

私は、さしあたり、「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」とは考えないし、「無駄なことをやることこそが必要だ」とは主張しない。

【論説】嘘

『嘘・未来形 デジタル時代の嘘のゆくえ』を嚆矢として、同じ著者による『その嘘の〈作者〉とは誰か』『嘘つきをつくる』、あるいは大著『“嘘の国ニッポン”の系譜学』三部作(『“嘘の国ニッポン”神話とその起源』『エイプリルフールの発見と〈ニッポン〉の変貌』『そんなの絶対ウソだってば、の美学と〈ニッポン〉の分裂』)など、近年、嘘をめぐる議論がにわかに活発になっている。

『創られた「日本の嘘」神話 エイプリルフールをめぐる戦後大衆文化史』の登場は、「ウソなんて嘘っぱち、ウソなんてものは存在しない」という論調を決定づけたと言ってよいだろう。若手研究者による一連の取り組みをめぐって、今も論争が絶えない。「新しい嘘つき」(北米発祥のいわゆる「ニュー・ライヤー」)日本版の誕生を歓迎する立場もあるが、『嘘の欺瞞 エイプリルフールにおける科学の濫用』以前への後退であると憂慮する声も根強い。

『動物化する嘘 嘘つきから見た日本社会』そしてその続編『ゲーム的嘘の誕生 嘘つきから見た日本社会2』が、著者たちの共通のバックボーンであると指摘される。そして「操作できる嘘は実在する」(イアン・ハッキング)とする実用主義、「嘘は実在するか否か」という発問にロジカル・タイプの混同を指摘する形式論理学など、英米哲学は、今やこうした嘘を読み解くためには必須の教養になった。

外国人観光客による「爆嘘」、政府の「一億総ウソつき社会」構想が話題になるご時世である。人文の嘘など、所詮はコップの中の嘘に過ぎないと嗤い飛ばすのはたやすい。しかし、嘘が終わりなき日常を生きてエイプリルフールの在庫が払底しつつあるとしたら、それは何事かの兆候かもしれない。

補遺:シンガーソングライター

学生時代、合宿の「余興」としてだったと思うが、増田聡が(たぶん自作の)歌をアコギで弾き語りしたことがある。詩もメロディーも覚えていないが、一同しゅんとして聴かざるを得ないリリカルな曲だった。

軽音楽部にいたのだから、それくらいはやるだろう、とも言えるが、その後の歩みを見ていると、リリシズムを捨てることで「ネットスター増田」が誕生した節がある。だが、リリシズムがゼロになったわけではないと思う。

例えば彼のパートナーは、私たちの知らない昔を知っている高校時代の同級生だ。

そして、ごく稀に、こういうテイストの文章を書く。

http://masuda.way-nifty.com/blog/

「ネットスター増田」は、ネットワーク・コンピューティングが実現した検索・編集にアイデンティファイするキャラクターということになっているようなのだが、それは、縛りがキツすぎるんじゃないかと、私には思える。

「本当のキミはそうじゃないだろう」

と言いたいわけではない。そんなことには興味がない。

自分が運営しているシステム(ブランド名「増田」)の経年疲労は、ちゃんとメンテナンスしてください、ということである。各種関連事業をトータルプロデュースしているのは、他でもなく、あなたなのだから。(=朝日新聞「声」欄)

補遺:悪の編集術

「やりたくてやってるんじゃないんですよ、お願いしますよ」

という風に頭をかきながら仕事をする、という昭和後期の雇われ管理職の定型がある。この場合、「やりたくてやってるんじゃないんですよ」云々は、周囲との摩擦を避けるための言葉の潤滑油であり、「やりたくないので辞めます、それが認められないのであれば転職します」の含意はなかったと考えられる。

大学の役職なんか、権限もなく責任ばかりで、みんな嫌がって押し付けあってるのに、いざ引き受けると、好きでやってるみたいに言われて軽蔑されるの、本当にたまらない。

という文言も、ひょっとすると、この言葉が発せられた文脈では、同様の処世術が反復されたに過ぎない可能性が高いのではないか。昭和に生まれると、つい、紋切り型でつぶやいてしまうのである。

ところが、増田聡氏は、この文言を、以下の文言の次に並べる。

まじに「現実とフィクションの違いがつかない」奴らが増えている。スローターダイク的シニシズムというかジジェク的というか、「フィクションを現実と錯覚して没入する」のではなく「現実をネタとして扱うので逆に現実もフィクション扱いして遊ぶ」のだな。結果としてはむしろこちらのほうが有害。

「現実とフィクションの違いがつかない」者にとっては、人間関係の潤滑油(言葉の綾)と、人間関係が織りなす契約や責任の力学の区別がつかなくても当然であり、むしろ、こういう時代には、両者を積極的に混同させていいのだ、と言わんばかりである。

こういう風に言葉を編集するのは、「悪」だと思う。