悪と罪の定義

問題発覚直後の、まだ、ほとぼりすら覚めていない段階で、ケロリとそのことを忘却してしまう振る舞いは、「無反省な居直り」=「故意の悪事」に分類されるので、意図しない過失より罪が重い。

当人の脳天気と反比例して、弁護可能な余地が狭まり、信用失墜の長期化が見込まれる。

悪と罪が、当人の早急な立ち直りによって確定した、ということである。

「いけシャアシャアと……」とか、「友達を無くすぞ」とか、「がっかりです」といった言い回しで知られる状態と言ってよいだろう。

これは、一般論ではなく、増田聡氏に対する私の現在の所見である。

過失と故意の間に、特殊な柵や境界線など存在しない。そして存在しない境界を越えるか越えないか、その振る舞いを、私たちは civilization と呼んでいる。都市の人と市外の人の区別であり、おそらく、市民権の付与・剥奪といった発想は、これと連動していると思われる。彼が「市外に去る」というのであれば、別に誰かがそれを止めるいわれはない。

おそらく彼の自己規定は「永遠の田舎者/成り上がり」というようなものなのだろうと想像されるが、実在の彼の生地をはじめとして、場合によっては「田舎」といまだに形容されるような地域を含めて、幸か不幸か、現在、この島では急速な「都市化」が進んでいることが知られているので、「市外に去る」は、居場所の喪失である可能性が高いわけだが。

認識と行為

学術雑誌の投稿論文の査読を依頼される、というような場合には、

「誰が言ったかはどうでもいい。発言の内容だけで判断すべきだ」

ということになるのだろうが、その学会の全国大会の案内を見ながら、学会に行くかどうか、どのセッションに顔を出すか、予定を組むときには、

「あいつが言ってることは嘘ばかりだから信用できない」→この学会(セッション)に行くのは止めよう、と思う。

(ツイートを見て、「もうこいつをフォローするのは止めよう」とか「ミュートしちゃおう」と思う、というのでもいいが。)

盾と矛のセット販売は商行為としていかにもありそうだが、同一人物の査読レポートと学会の出欠葉書を照合するのは無意味だし、そんなところに consistency を誰が要請するのか。

屁理屈として幼稚だと思うが、劣化は何に起因するのか。

revolutio という国際バズワード

「コペルニクス的転回」が「科学革命」の引き金を引いたかのような語り方があるけれど、Copernican revolution はドイツ語では Kopernikanische Wende で、革命 Revolution ではなく転換 Wende と呼ばれているようだし、カントの純粋理性批判には、「思考法の変換 Umänderung der Denkart」という言い回しがあるだけで、Wende の語すら出てこない。

ここまでは前に調べたが、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150103/p4

話の発端になったコペルニクスの書名「天体の回転について De revolutionibus orbium coelestium」の回転の語が revolutio なのは気付いていなかった。

天文学・自然科学で回転 revolutio が「発想の転換」を示すキーワード、スローガンになったのと緩やかに関連しながら、政治でも王様の首のすげ替え(中国なら「革命」の語で呼んだような)が revolution と大げさに言われるようになり、この大げさな語法が20世紀半ばの科学史へとブーメランのように還流して、17世紀の scientific revolution が言われるようになった。ただし、18世紀後半のカントは、そもそも revolutio という単語自体をそういう風なバズワードとして使用することすらやっていない。

という風に、印刷とジャーナリズムの近代を「revolutio」という言葉がぐるぐる回転しているに過ぎないようだ。東アジア儒教文化圏の「革命」概念を知っている者が、revolutio の語がぐるぐる回るのを見て、どれが「革命」でどれがそうでないのか、見極めようと必死になるのは、欧米に追随しないと生き残れなさそうな(しかも、我等は易姓革命など一度たりとも起きてはいない万世一系である、と言い張る国柄の島の)島民としては仕方のないところではあるけれど、疑似問題の可能性が高い。

revolution とはどういう種類の回転なのか、「元どおりに(re-)曲げる(-volve)」のかと私も思ってしまっていたが、天体の周期運動なんだったら、そういうことは考えないでよさそうだ。

小谷野敦が、revolution の語を政治的な事象に使うようになったのは、暴動 revolt という単語からの類推が働いたのではないか、と指摘しているが、revolt の場合は、「反対に(re-)回す(volve)」=反乱、なのだから、ますます「re- = 元どおり」というようなことは考慮しないでよさそうだ。

反米という病 なんとなく、リベラル

反米という病 なんとなく、リベラル

(ラ・ロシュフコー=リアンクール公爵が Non sire, ce n'est pas une révolte, c'est une révolution. と言った、という風に revolt と revolution の語を対比する逸話は、なにが出典でどういう経緯で今日に伝わっているのだろう。)

「儀礼的」とは?

「挙証という行為はローマ的、西欧的な儀礼である」

と言うときの「儀礼」は、どういう意味合いで言われているのか。

おそらく、挙証の文化史のようなものを検証するときには、しかるべき歴史的・人類学的概念としての「儀礼」に照らして、それが論じられることになるだろうと思うのだが、

そのような考察結果が「ゆえに挙証は一種の儀礼なのです」とアウトプットされて、一人歩きをはじめたときには、「儀礼的=形骸化したお約束」というコノテーションを帯びることがあらかじめ予想される。

研究結果は、研究者の手を離れて、情報空間で予期しない「誤読」や「誤配」を生みうる。それはいいのだが、どうも、千葉雅也がこういうことを言うと、発信者が免責された状態で「挙証なんてお約束ですよ」という言説が流通するであろうことを予め見越して、(つまり先を予想したうえで)こういうことを言っているような気がしてならない。

ネタの投下、受け狙いの浅ましさが臭う。

「利己的遺伝子」等々がバズワード化して広まった事例を踏まえて、柳の下の養殖どじょうの量産体制、みたいのが成功するとは、私には思えない。

Virtualをのぞき見る

足を踏まれて、「痛いなあ、誰だよ」と見上げると、その男はスマホに夢中で、他人の足を踏んだことにすら気付いていない。

ということがあったとしたら、この男はいったい何に夢中になっているのか、「スマホの中身」に関心を抱いても、さほど不自然ではあるまい。

アカウント名で検索すると、当人が申告するところの「オレら」、もしくは、「(あれこれ物を言う)他人」の正体なのかもしれない囁き声の一端に触れたような感覚を味わう。

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あるいは、公開されたデータをあれこれ解析するサイトがあるようだ。

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しかしこの「オレら」もしくは「他人」たちは、それぞれに、スマホやパソコン端末の先で、普通に人の足を踏んだり踏まれたりしながら生きているのだから、現実と紐付けることが難しい実勢的 virtual な「何か」が私をフォローしている(私は「何か」に追われている)という風に感じさせる局面があるかもしれないけれど、でも、この「何か」は「虚 fictive」ではないよね。

それとも21世紀にもなって、これを「虚」と呼ぶアホが今もいるのか?

(=「虚実の壁」調査委員会)

増田聡は教祖ではない

ある時誰か(誰か達)が「嘘と本当はきっぱりと分けられその間など存在しない」と宣言した。それからオレたちは嘘と本当の間に高い壁を築き、その間について考えることをやめてしまったのだ

と彼は書くわけだが、この文章を読んだ読者のうち、はたしていったい何人が、「オレたち」のなかに、この私が含まれている、という風に思うのだろうか。

少なくとも、私はそんな「高い壁」を築いた覚えもなければ、増田聡に、勝手に「オレたち」呼ばわりされるいわれもない。

(虚実皮膜論を大げさに拡大解釈してアジっても、「学会はエンターテインメントではない」という先の私の文に対する反論にはならないし。)

これは、「同志」に呼びかけるアジテーションの話法に見える。

そして彼がこのタイミングで、「同志」への呼びかけ話法を採用したのは、宗教的もしくは政治的指導者が不当に法廷に召喚される、といった殉教・弾圧の物語を暗黙に想定したと想像される。

(増田聡の脳裏にあるのは、おそらく、せいぜいオウム真理教のあの人だろう。)

しかし、別に私は、最初から、私の知っている彼の怠惰と虚言が、彼の実存を脅かすほど重大で決定的なものだ、などとは微塵も思っていない。(当たり前だ)

また、私は、彼が学会の次の選挙で落選すればいいのに、と思っているが、たぶん、日本音楽学会は、そこまでシビアじゃないだろう。

さっさと詫びれば済むことについて、どうあっても頭を下げない頑固と誇大妄想がどこから来るのか。

現状は、うっかり雑踏で他人の足を踏んでしまって、「痛いじゃないか」とごく普通に言われただけなのに、あたかも、イエスが明日にも磔にされそうだと言わんばかりに大騒ぎしているわけで、彼が騒げば騒ぐほど、事態は滑稽になる。

【再掲】

「そんなことを書き殴る前に、ここ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20160315 に書いた質問にちゃんと答えて下さい」

虚実皮膜

日本音楽学会は虚実皮膜の境界を戯れるエンターテインメントではないし、増田聡の回答は、いかなる怠惰・遅延行為によっても忘却されることなく、無期限に待たれている。(=非生物を主語に立てる受動態)

見込み違いへの対応

先端的な研究は、たぶんこれでいけるだろう、という「見込み」でスタートするしかないので、どうしたって「見込み違い」が発生する。

自然科学は、「見込み違い」だったときには撤退して、次のテーマにチャレンジして、「歩留まり率」で勝負するように、色々と環境を整備している印象を受けるが、たぶん、それでも、ときには大量の「見込み違い」が出て、シマッタ、これは誰かが責任を取るしかない、ということがあるんだろうと思う。

社会科学でも歴史学でも、事情は似たようなものだと思う。

いわゆる「人文学」は、ニューアカ以後、周りから、それは無理だ、って言われ続けているのに一方向へ突進して、案の定、「見込み違い」が大量発生して、だから、てこ入れ、という、それだけのことなんじゃないだろうか。(=さばけた説明)

責任の押しつけを拒否します

下の記事を書くような人物が相手なので、先取りして宣言しておくが、

もし、増田聡氏が、「白石知雄のものの言い方が悪かったから、私は彼の問い合わせを放置したのです」という風に、自身の虚言と怠慢の責任を私に押しつける戦術を採用した場合には、彼に宛てた私の問い合わせのメール全文を公開します。

それを求めるのであれば、増田さん、そのように意思表示してください。いつでも応じますから。

「動く」とは?

彼の思考法がよくあらわれた発言なので、保存しておく。

「トップダウン」と独裁ってぜんぜん別のもんやと思うけど、「トップダウンでやりなさい」と指令を受けた役人根性のトップの人はなぜか知らんがほぼ必ず下々の話を聞き入れず独裁を始めてしまう。人を動かすことについてのイメージが貧しいからなのかな、とおもう

いちおう念のためにコメントしておくと、増田聡氏自身は、「人を動かす」という風に能動的な言葉遣いを採用しているが、実際には、彼が人間関係を観察するときの基本姿勢は、「そのようなやり方で、人はうまく動かされるかどうか」という受動態である可能性が高い。

そして、他者から彼自身に接触があった場合には、「そのやりかたでは、オレは“動かされない”/そういう言われると、“動かされる”」というように、やはり、受動態で把握していると推測される。

しかし、機能集団が個人に所定の役割を与える場合、その役割の範囲内での責任を負って、あなた自身の判断で、あなた自身が「動く」ことが求められる。対象との関係(使役・受動)ではなく、自ら動く/動かない、である。

さばけている、はそういう状態だと思う。

たぶん、彼はそういうことをうまく言葉にできない。不幸なことである。

「動かされない」(受動態)と「動かない」(さばけた状態)は、別の行為だが、彼の中には、「動く」がないのと連動して、「動かない」が存在しない。そして彼が、「あいつらはわかっていない」と言ってしまうのは、「動く/動かない」という軸が退化して、「動かす・動かされる・動かされない」(使役・受動)の軸で考えるのが習い性になってしまったせいではないか。

シンプルな「動く・動かない」を忘却して、ややこしい使役(動かす・動かされる)ばかりを考えてしまう状態は、応用問題を解くことばかりに熱中する「考えすぎ」と形容できるだろう。

(引用元は、「トップダウン」と「独裁」というキャッチーな単語を冒頭に出すが、結局、その違いを最後まで説明できない尻すぼみで終わる。例えば、「動かされない」を認めないであろう点で、「トップダウン」と「独裁」はさほど違わない。「動く・動かない」を入れて考えないと、両者の違いは説明できまい。)

詐欺対応

與那覇潤がどういう風にペテン師ぶりを発揮したか、小谷野敦が分析している。

反米という病 なんとなく、リベラル

反米という病 なんとなく、リベラル

與那覇潤は、結局、足が付く前に人前から逃げた(「一発屋」風に……)。

増田聡の場合は、「みんながなんとなくそういう風に思うこと」を書いて支持者を広く浅く集めておいて、自分の非を突かれると、「オレが倒れたら、これだけの人たちが路頭に迷うことになる、それでもいいのか」と居直る手法である。

だが、すくなくとも現時点では、あなたが「倒れる」ことがあっても、あなたが、あたかも「人間の盾」のように押し立てる「これだけの人々」の命運との因果関係はほとんどない、と私には見える。

もはや、そのような取引に応じる者はいないと思う。

さばける/さばけてない

俗っぽい口語だが、最近マイブームである。

音楽学会西日本の支部通信は、きっと、さばけた人たちが作ったんだろうな。

とか、

増田聡って、なんか、さばけてなくて、面倒くさい人だよね。

という風に使う。


「じゃあ、千葉雅也は?」「う〜ん、ビミョー」

不穏

先日配信された日本音楽学会西日本支部支部通信の巻頭言に、

ある支部委員が「学会とはそもそも合理的なものではないので、合理化を推し進めることは矛盾している」と発言されていたことが印象に残っています

との文言がある。巻頭言を執筆した先生が、こうした業務をどのように進められるタイプの方なのか、ある程度知っているので、この素性の怪しい伝聞の文言を鵜呑みにするつもりはないし、支部通信本体は、学会の公式文書として、とても理性的にまとめられている。

日本語で rational を「理性的」と「合理的」に訳し分けるのは、今や、悪弊と言うべきではないだろうか。すっきり割り切れるか、そうではないか、というだけのことなのだから。

「わりきれること」は、どんどん割っていけばいいじゃん。それは、「わりきれないこと」をくっきり浮かび上がらせるのに必要な手順だ。学会委員たるもの、エセ数学の詭弁を弄してはいけません。

厚顔無恥

私が、精華大の谷口くんに直接問い合わせしなかったのは、「例会担当委員」という役職が設けられているので、そのしくみを尊重したからである。

担当委員は増田聡という人物であり、彼がいいかげんなことは既にわかっていたが、「今回は、最後のチャンスとして、彼の顔を立てる」と決めていたからである。

その覚悟がなければ、そもそも、増田が担当委員をしているような妖しげな会に、発表を申し込んだりしない。

今回の発表は、「どこがどう上手くいかなかったか」ということを、当事者として、こうして具体的につまびらかにするところまでが、私の発表の「目的」に含まれている。

おのれのいいかげんを棚に上げて「詐欺」云々を語る、というような厚顔無恥は、金輪際、止めていただきたい、ということである。