補遺:言論スタイルの同一性

「人を育てることに投資すべきである」

というそれ自体としてはもっともなことを、増田聡は、いかにも躾の悪そうなスタイルで語ろうとする。

逆説やアイロニーを仕込んでいるのかというと、そうではない。単に、「オレはこのスタイルで行く」と決めて、それを続けているうちに、他のスタイルに切り替えることができなくなっているように見える。

「それがロックだ」という風に自分で自分の首を絞めないほうがいいと思う。単なる勉強不足と、今とは違うことに踏み出せない臆病と、違うことをやろうとしてもなかなか上手くいかない不器用が組み合わさった複雑骨折みたいなものだ。

困るのは、「オレが仕切っている場では、お前達も、みんなオレの流儀でやってもらう」という風に、そのスタイルに周囲を染め上げようとすることである。

こうなると、ただのわがままなオコチャマである。

残念ながら、こういうタイプの面倒くさい人にこれから投資して、この人を何かに「育てる」ことの優先順位は、あまり高くないと思う。自力でどうにかするしかなかろう。

補遺

ヒヨコは最初に見たものを親鳥だと思ってついていく、と言われるが、

大学で研究室に配属されて出会った山口修や渡辺裕を「これが大学教授というものか!」と思い、彼らを大学教授のプロトタイプだという風に今も考えているとしたら、それは、暫定・偶然を普遍・必然と誤認する錯誤と言わざるを得ないだろう。

彼は何を間違ったのか?

大学の指導教員という「親」ではないものを「親」と思い、大学という「家族」ではないものを「家族」と思う錯誤である。私たちはニワトリではないのである。

あるいはこの種の錯誤は、ニワトリの怪物が活躍するマンガや、国家の特務機関の暗黙のミッションが「家族のトラウマの克服」であるようなアニメーションが流布した時代・世代の錯誤である、という風に、ある程度は診断できてしまうのだろうか?

預言者と扇動者

「倦怠と憤り」、「イライラとノリノリ」という風に、それぞれが両極端の間を往復してしまうのは、預言と扇動、という運動体によくある組み合わせと似てしまっているからだと思う。

あなたたちの周囲にある集団は、学会にせよ学校にせよネット村にせよ、運動やその予備軍としてそこにあるわけではない。

(おわり)

愚連隊セカイ系

この人(たち)は、一生こうやって、自分の気に入らない人間に罵詈雑言を浴びせながら生きていくのでしょう。

年長者は敵、というのがデフォルトなので、関わり合いにならないことだ。時期が来れば、年少者から(も)異論が出るだろう。日本の人口の推移を考えれば、「世代」で自らをアイデンティファイできる最後の人たちだろうから。

思想信条の問題

実害を検討するのは後回しにして、思想の問題として考えてみる。

一般的な理解としては、ポストモダンはニューレフトだ。でも、近代、とりわけデモクラシーへの倦怠から近代の超克を構想する、ということになると、言葉遣いは難解であったり、左翼リベラル風であったとしても、そうした言論を駆動する動機は、実はとてもまっすぐな反近代(保守というより右翼)であるケースが、可能性としてあり得るかもしれない。

つまり、

「まあどの業界にもこういう手合いはいるのかもしれませんが、自分が知っている範囲にいると、ホントげんなりしますね。」

という文言に含まれる指示代名詞が、はたして何を指しているのか、ということである。

現代国語の試験問題のように、前後の文中から単語を借りてくるとしたら、

「まあどの業界にも怨恨を拗らせる手合いはいるのかもしれませんが、自分が知っている範囲にいると、ホントげんなりしますね。」

が正解だろうが、もしこの話者が、白石知雄の原則として理性的にしかものを言わない態度を知ったうえでの発言だとした場合には、

「まあどの業界にも民主主義だの権利だのを振りかざす手合いはいるのかもしれませんが、自分が知っている範囲にいると、ホントげんなりしますね。」

が成り立つのかもしれない。(こうなると、語尾の「……ね」という目配せがどのような読者を想定していることになるのか、文の効果が一変する。白石知雄は、ゼロ年代バックラッシュ用語で言うところの「プロ市民」ではないので、この解釈も、私には同意できないわけだが。)

そして、「学会の支部とは不合理なものであるから、合理化はおかしい」という議論があったという伝聞情報、彼の著作の序文における西ドイツのいわゆる「知的偽善」へのストレートな反感の表明、など、気になる挿話がいくつか思い浮かぶ。

想定読者の間口が広く、そのような効果「も」排除しない、という程度のことなのか、図と地が反転して、他の読まれ方「も」可能だが、そのような読者にこそ、私の思想を届けたい、ということなのか。

意図をブラックボックスにして、「効果」を目指すタイプの文は、こういう状況を生み出すことがある。

(だから注意深い「観察」を続けないとしょうがなくなってしまうのです。)

……

しかし改めて考えてみると、

「一時の気の迷いで、一生を棒に振ることがないよう、切に願います。」

というのは、役員による一般会員への脅迫(パワハラ)に該当してしまうのではないだろうか。当方は、なぜここにこういう文章を綴るのか、理由等をそのつど説明している。これが「一生を棒に振る」に値する行為である、という断定の根拠の説明責任は、この発言の発話者の側にあると考えられそうなのですが?

現時点では、事実関係を把握しないままに口から漏れた不用意な発言に過ぎなかった可能性を考慮したほうがいいのだろうと思っておりますが。

彼のこの発言によって、私が実害を被ることが予測される場合には、何か考えることになるかもしれないにしても……。

言葉の牢獄

「べったり貼り付いたものを丁寧に剥がす行為は、レッテルを幾重にも貼り続ける粘着だと、しばしば誤認されます。まさしくこれこそが、過度の依存の兆候なのです」(スラヴォイ・ジジェク)

敷衍と編集:「粘着行為」というレッテルの背景

ひとつの事柄について、こうも言えるし、ああも言える、とパラフレーズしながら何事かを浮かび上がらせる、という論述の手法がある。テクストの精読を通じて教えられることが多いので「文系」固有の職人芸のように思われているところがありそうだが、数学者が幾何学と解析学と算術を横断しながら論証を進めたり、自然科学や社会科学が膨大なデータを解析するときにも、似たような敷衍の局面がありそうだ。

(また、演奏でもカメラでも料理でも、「実技」には、ああでもない、こうでもない、と同じ地点で色々試行錯誤しないと何かが身につかない局面がある。)

尖った若者は、概して、これを好まない。時間とリソースを要するし、停滞しているように思えて、焦るのだと思う。

実際、敷衍は経験を要するし、ある種の豊かさを背負わないとうまくいかない。

そしてここが、若者の狙い目になる。

経験もまた「資本」である、とみなし(=「文化資本」論)、豊かさの印象を「ブルジョワ的」と形容すれば、文化革命のマニュフェストのできあがりである。

「文化資本」を廃棄して、情報データベースを設置する。そして敷衍・精読ではなく、情報の編集・検索が新時代の花形になる。

……という風に舵を切って十数年だと思うのだが、「文科省」の大学への手出しを批判的に問題化するのであれば、こっちの決断のほうも、あわせて総括しないと、ご都合主義だと思う。

「粘着」の語を拡大解釈して誰かに貼りつけるプロパガンダには、敷衍・精読を抑圧・排除する党派性の疑いがある。

ゼロ年代の転機

日本音楽学会の全国大会で、伊東信宏、沼野雄司を後見人にして、吉田寛、増田聡が若手の本音をぶちまけるシンポジウムがかつてあった。

あそこで何かが決壊して、そのハンドリングを間違えた結果が現在なのだろうと総括することができるかもしれない。

今年で10周年であるらしいツイッターの黎明期で、ひょっとするとまだ mixi だったかもしれないが、吉田先生は、学会の委員会に参加しながら、「オレはネットでプロ野球の試合結果をチェックしているぜ」とつぶやいていたのだから、ウブで幼稚な多幸感に人が駆り立てられた時代である。

「気づき」の限界

「理性もひとつのドグマである」。推論を積み重ねることで、理性という概念をそのように配置することが可能ではあるだろうと思うわけだが、しかし、そのような構図に「気づく」こと、そして、怪物に鏡でおのれの姿を見せつけるかのように、既に稼働しているのかもしれない「ドグマとしての理性」に、この主張を突きつけることが、どういう効力を発揮するか、定かではない。

よく知らないけれど、純粋理性批判の次に実践理性批判が来るのは、通常、そういう理路だと考えられているわけですよね。で、さらにその先に、主観的合目的性というようなエステティークが出てくる。

この回路は、今も稼働しているのか、もう古いのか。

切り捨て御免?

先の一連の吉田寛氏の発言のなかで、最後の捨て台詞「一時の気の迷いで、一生を棒に振ることがないよう、切に願います。」が、私には何が言いたいのか、まったく理解できなかったのだが、

あるいは彼は、「切り捨て御免」のつもりだったのか?

「一国一城の主」モデルを心の中に育ててきて、サントリー学芸賞は、おのれの幻想への社会の承認、これで晴れて、家督を継ぐことが叶った。ならば早速、獅子身中の虫に天誅を加えようぞ、とか。(城主が天誅、はちょっと変だが。)

どっこい私は生きているわけであって。

城と宿

「一国一城の主」という言葉があるが、さしずめ、大学とは学問の城、なのかもしれぬ。

しかし、部外者にとっては、つかのまをそこで過ごす広間、せいぜい、宿に過ぎない。

学会の世話役をしかるべき大学の専任教員が務めるのは、「一国一城の主」であると目されているからなのかもしれず、客人を城に招く、に似た作法が様々にあるわけだが、しかし、このフィクションはこの先も維持可能なのか。

「大学が我々のものではなくなってしまった」という嘆きは、守護大名が下克上を嘆くかのように見えないこともないが、日本の大学は近代化の産物なのだから、最初から、大学教員は「お殿様」ではないとも言える。(学問の道は、誇り高き旧士族の受け皿だったのかもしれないにしても……。)

宿としての機能と利便性を考えて、場合によっては、城外に広間や宿を設定する。そしてその世話役は、「城主」であることを要件としない。

学会という組織は、もう、それでいいんじゃないか。(=カフカと城)

映像環境と翻訳と「石頭」

Appleは音楽であれ映像であれ、CDやDVDのようなディスクの読み書きに頼らない環境にユーザを誘導する方針が明らかなわけだが、世間にはCDやDVDや、Appleが純正で頑として利用を補償しないブルーレイというものが現にある。

しかもそれじゃあ、出力方法(ディスプレイと接続)をそれぞれの場所がどのように構築していて、映像と音声の両方が使えるのか、ちゃんと映像と音声が同期できるのか、どれが使えてどれがダメなのか、組み合わせは千差万別で、しかも、こういう機材は、通常、現場の都合と関係なく入れ替わったりするので、とても面倒なことになる。

私はこの方法しか使わないので、なんとかしてくださいで押し切る、もしくは、我々はこういう条件でしか使用を認めませんと申し渡される、という一方的なやり方が通るのであれば、話は簡単だが、むしろ、そういう風にはなっていないことが多いように思う。

何に似ているかというと、通訳・翻訳に似ている。

私は日本語しか話さないので、あなたのほうで翻訳するなり、通訳を用意するなりしてください。あるいは、当方は英語しか受け付けませんと申し渡される、というのが通用するのであれば、一方が他方に合わせればいいので、シンプルといえばシンプルだが、普通はそういう風には割り切れないので、できるところからやりとりしながら、調整を図ることになる。

……と普通は思うわけであって、そこに、「私は日本語主義者なので」とかいう人が入ると、かえって話の複雑度が増してしまう。

わかったから、脇にどいて、黙っておいてくれ、となるのは、むしろ、そうした主義者がいるケースである。

「頑固な石頭」という言葉がかつてあった。

「横槍」とか「石頭」とか、事態を切り分けようとするときに、アクの強いデコボコ人材が登場し過ぎるわけで、いったいどうなっているのか、と、素朴に言うとまた怒鳴られる、とか、ここは何なのか。(=カフカ的状況)

イベント駆動の限界

吉田寛から横槍が入ったことで、むしろ、はっきりしたことがあると思うので、再度まとめておく。

既に書いたように、増田聡がこの程度の失態で明示的な責任を取らされることは、おそらくないだろうと思う。

しかしそれは、「問題があれば、そのときに適宜対処する」というイベント駆動の組織運営が、外見上、「うまくいきすぎている」ということだと思う。日本音楽学会西日本支部を、殺さず生かさず、のらりくらりとやっていく、と決め込むことは、運営担当者の「ゲンナリ」と、運営担当者によって「不届きな粘着」と叱責される一般会員を、今後恒常的に発生させると思う。それでいいのか、ということです。

(支部の廃止は、ひとつの有力な選択肢だろうと思う。やり方としては、別に他の支部と横並びで考えなくても、「人材不足により西日本支部は○○年度以後の予定はありません」と通告すればいい。廃止しなくても、活動を停止すれば、話は早いと思う。委員が全員、一切の会議と行事をボイコットすれば、すぐに活動は停止するし、事情を知らずに発表を申し込んで、なしのつぶてで不安に陥れられる不幸も回避できる。あくまで、あり得べきひとつの選択肢として、だが。)