居直りと退場

天真爛漫なネット・スターだったかも知れない人が、一皮めくると、言を左右して居直りを決め込むオッサンキャラであった、というのは、いつか来た道、と言うべきであろう。

こういう光景を私が最初に目撃したのは、昭和後期のベビーブーム以来の「子供の時代」の花形だった「教育評論家」が、実はしばしば、自らの家庭で子育ての悩みを抱えていると暴露されたときだったかもしれない。

「この親(故人)にして、この子あり」という言葉が思い浮かぶ。

70年代末から80年代初頭は、そうした暴露で、霧が多少は晴れたかのように「教育問題」(尾崎豊風校内暴力全盛期である)を語る話法の風通しがよくなりそうな兆しが見えたが、団塊チルドレンの登場で、80年代から90年代は、状況がまったく変わってしまった。

だからこそ、「親世代」と「子世代」の因果に言及したくなるわけだが……、

これは同時に、暴露・告発的言論(「可視化」「見える」化ですな)の効用はその程度に限定的であり、しかし、その程度であれ、何事かをもたらせば、良しとすべきであろう、ということでもある。(=プラグマティズム)

そしてこの一文を綴ったのは、「居直り」と「退場」という文言を、どういう形であれ、今書き込んでおくのがよろしかろう、と思ったからである。(=言語行為論)

ちなみに、「見える」化などという、いかにも増田聡が鬼の首を取ったかのようにおちょくる手がかりにしそうな文言を入れたのは、この期に及んで、まだ性懲りもなくそういうことをこの男がやるのであれば、その姿が「見える」化していいだろう、という風に、リスクとエフェクトを比較衡量した結果のGOサインである。(=再びプラグマティズム)