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「べき」の範囲指定について

いろんな物事全てに「私はこうあるべきと考える」という態度を必ず示さなければならない強迫観念に囚われた人というのがたまにおる。

それは困った人だし、私にそういうところがあったとしたら反省しよう、と珍しく増田さんの発言を自分に振り向けてみた。

私は、この日記で、何度か「べき」を使っているが、この日記は、増田聡というユニークな人物を把握するために必要な道具立てを揃える、という特定の目的があり、目的遂行のために必要な場面で、「私はこうあるべきと考える」という話法を使っているに過ぎないようだ。

「いろんな事物全てに」ついて、「こうあるべき」を表明しているわけではなく、彼が設定する条件には該当しないので、気にすることはなさそうだ。

ひと安心である。

増田聡さんの立場から見ると、この日記は、「オレに関わるすべての事柄について「こうあるべき」を立てて、オレの周囲を「こうあるべき」で包囲しようとしている」という風に見えるかもしれないが、私は、この日記の外に、それほどたくさん「こうあるべき」を立てているわけではない。

それに、この日記は、「こうあるべき」だけを書いているわけでもないので、そういう意味で、私は、増田聡さんに対して、「むしろある種の強迫観念にとらわれているのは、あなたのほうではありませんか」と、切り返すことができる立場にいるかもしれない。

もちろん、私は、誰かから(あるいは「何か」から)「そのようにすべきである」と命じられてはいないので、何もしないけどね。

(以上、増田さんの文章に対するコメントを、「私はこうあるべきと考える」という文言を使わずにまとめることができるかなあ、と思ってやってみたら、特に何の不自由もなく、文章がまとまったので、これでよしとしたい。

あと、ついでにいっておくと、「私はこうあるべきと考える」という文言を私が使うときには、「他人がどうであろうと、私はそう考える」ということであって、「あなたも、私と同じように考えなさい」と他人に何かを命じる含意はない。だからこそ、「べき」を、「私は……と考える」で囲むのであって、もし、わたしにもあなたにも妥当する「なすべし(当為)」を立てようとするのであれば、「私は……と考える」話法を使いません。普通そうですよね。)