映像環境と翻訳と「石頭」

Appleは音楽であれ映像であれ、CDやDVDのようなディスクの読み書きに頼らない環境にユーザを誘導する方針が明らかなわけだが、世間にはCDやDVDや、Appleが純正で頑として利用を補償しないブルーレイというものが現にある。

しかもそれじゃあ、出力方法(ディスプレイと接続)をそれぞれの場所がどのように構築していて、映像と音声の両方が使えるのか、ちゃんと映像と音声が同期できるのか、どれが使えてどれがダメなのか、組み合わせは千差万別で、しかも、こういう機材は、通常、現場の都合と関係なく入れ替わったりするので、とても面倒なことになる。

私はこの方法しか使わないので、なんとかしてくださいで押し切る、もしくは、我々はこういう条件でしか使用を認めませんと申し渡される、という一方的なやり方が通るのであれば、話は簡単だが、むしろ、そういう風にはなっていないことが多いように思う。

何に似ているかというと、通訳・翻訳に似ている。

私は日本語しか話さないので、あなたのほうで翻訳するなり、通訳を用意するなりしてください。あるいは、当方は英語しか受け付けませんと申し渡される、というのが通用するのであれば、一方が他方に合わせればいいので、シンプルといえばシンプルだが、普通はそういう風には割り切れないので、できるところからやりとりしながら、調整を図ることになる。

……と普通は思うわけであって、そこに、「私は日本語主義者なので」とかいう人が入ると、かえって話の複雑度が増してしまう。

わかったから、脇にどいて、黙っておいてくれ、となるのは、むしろ、そうした主義者がいるケースである。

「頑固な石頭」という言葉がかつてあった。

「横槍」とか「石頭」とか、事態を切り分けようとするときに、アクの強いデコボコ人材が登場し過ぎるわけで、いったいどうなっているのか、と、素朴に言うとまた怒鳴られる、とか、ここは何なのか。(=カフカ的状況)