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「気づき」の限界

「理性もひとつのドグマである」。推論を積み重ねることで、理性という概念をそのように配置することが可能ではあるだろうと思うわけだが、しかし、そのような構図に「気づく」こと、そして、怪物に鏡でおのれの姿を見せつけるかのように、既に稼働しているのかもしれない「ドグマとしての理性」に、この主張を突きつけることが、どういう効力を発揮するか、定かではない。

よく知らないけれど、純粋理性批判の次に実践理性批判が来るのは、通常、そういう理路だと考えられているわけですよね。で、さらにその先に、主観的合目的性というようなエステティークが出てくる。

この回路は、今も稼働しているのか、もう古いのか。