敷衍と編集:「粘着行為」というレッテルの背景

ひとつの事柄について、こうも言えるし、ああも言える、とパラフレーズしながら何事かを浮かび上がらせる、という論述の手法がある。テクストの精読を通じて教えられることが多いので「文系」固有の職人芸のように思われているところがありそうだが、数学者が幾何学と解析学と算術を横断しながら論証を進めたり、自然科学や社会科学が膨大なデータを解析するときにも、似たような敷衍の局面がありそうだ。

(また、演奏でもカメラでも料理でも、「実技」には、ああでもない、こうでもない、と同じ地点で色々試行錯誤しないと何かが身につかない局面がある。)

尖った若者は、概して、これを好まない。時間とリソースを要するし、停滞しているように思えて、焦るのだと思う。

実際、敷衍は経験を要するし、ある種の豊かさを背負わないとうまくいかない。

そしてここが、若者の狙い目になる。

経験もまた「資本」である、とみなし(=「文化資本」論)、豊かさの印象を「ブルジョワ的」と形容すれば、文化革命のマニュフェストのできあがりである。

「文化資本」を廃棄して、情報データベースを設置する。そして敷衍・精読ではなく、情報の編集・検索が新時代の花形になる。

……という風に舵を切って十数年だと思うのだが、「文科省」の大学への手出しを批判的に問題化するのであれば、こっちの決断のほうも、あわせて総括しないと、ご都合主義だと思う。

「粘着」の語を拡大解釈して誰かに貼りつけるプロパガンダには、敷衍・精読を抑圧・排除する党派性の疑いがある。