思想信条の問題

実害を検討するのは後回しにして、思想の問題として考えてみる。

一般的な理解としては、ポストモダンはニューレフトだ。でも、近代、とりわけデモクラシーへの倦怠から近代の超克を構想する、ということになると、言葉遣いは難解であったり、左翼リベラル風であったとしても、そうした言論を駆動する動機は、実はとてもまっすぐな反近代(保守というより右翼)であるケースが、可能性としてあり得るかもしれない。

つまり、

「まあどの業界にもこういう手合いはいるのかもしれませんが、自分が知っている範囲にいると、ホントげんなりしますね。」

という文言に含まれる指示代名詞が、はたして何を指しているのか、ということである。

現代国語の試験問題のように、前後の文中から単語を借りてくるとしたら、

「まあどの業界にも怨恨を拗らせる手合いはいるのかもしれませんが、自分が知っている範囲にいると、ホントげんなりしますね。」

が正解だろうが、もしこの話者が、白石知雄の原則として理性的にしかものを言わない態度を知ったうえでの発言だとした場合には、

「まあどの業界にも民主主義だの権利だのを振りかざす手合いはいるのかもしれませんが、自分が知っている範囲にいると、ホントげんなりしますね。」

が成り立つのかもしれない。(こうなると、語尾の「……ね」という目配せがどのような読者を想定していることになるのか、文の効果が一変する。白石知雄は、ゼロ年代バックラッシュ用語で言うところの「プロ市民」ではないので、この解釈も、私には同意できないわけだが。)

そして、「学会の支部とは不合理なものであるから、合理化はおかしい」という議論があったという伝聞情報、彼の著作の序文における西ドイツのいわゆる「知的偽善」へのストレートな反感の表明、など、気になる挿話がいくつか思い浮かぶ。

想定読者の間口が広く、そのような効果「も」排除しない、という程度のことなのか、図と地が反転して、他の読まれ方「も」可能だが、そのような読者にこそ、私の思想を届けたい、ということなのか。

意図をブラックボックスにして、「効果」を目指すタイプの文は、こういう状況を生み出すことがある。

(だから注意深い「観察」を続けないとしょうがなくなってしまうのです。)