補遺

ヒヨコは最初に見たものを親鳥だと思ってついていく、と言われるが、

大学で研究室に配属されて出会った山口修や渡辺裕を「これが大学教授というものか!」と思い、彼らを大学教授のプロトタイプだという風に今も考えているとしたら、それは、暫定・偶然を普遍・必然と誤認する錯誤と言わざるを得ないだろう。

彼は何を間違ったのか?

大学の指導教員という「親」ではないものを「親」と思い、大学という「家族」ではないものを「家族」と思う錯誤である。私たちはニワトリではないのである。

あるいはこの種の錯誤は、ニワトリの怪物が活躍するマンガや、国家の特務機関の暗黙のミッションが「家族のトラウマの克服」であるようなアニメーションが流布した時代・世代の錯誤である、という風に、ある程度は診断できてしまうのだろうか?