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無駄と勤勉

私には、「無駄」という語を彼がどういう意味で使おうとしているのかわからない。

また、「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という論法が、無為自然の道教の亜流なのか、ムーミンに出てくる「無駄じゃ、無駄じゃ」の哲学者の口まねなのか、といった系譜を判定することもできないが、

「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という主張は、「私は無駄なことをやることこそが必要だと考える」という主張と組み合わせると、どういう結果が導かれるか、ということはわかる。

もし、あなたが「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という前提から、「ゆえにすべては無駄である。だから何もしない」という結論を導きだした場合、何もしないのだから結果は「無」であり、「事後の吟味」という手続きが消滅してしまう。つまり、「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という主張は、この場合には「私は何もしない」というサボタージュの宣言になってしまい、「無駄なことすらしない」ことになってしまう。

もし、あなたが「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という前提から、「ゆえに、私は事前の吟味を放棄する」という結論を導きだした場合、あなたは、「事前の吟味」という「無駄」を排除しているのだから、せっかくの「無駄」をやらなかったことになる。

あなたが「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」という前提と、「私は無駄なことをやることこそが必要だと考える」という主張を両立させようとしたら、「ゆえに私は、それが無駄であると考えるからこそ、事前の吟味を行う」という結論を導くしかなくなる。

どういうことかというと、

「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」

という一見、あなたを面倒から解放することに役立ちそうな着想と、

「私は無駄なことをやることこそが必要だと考える」

という、これも一見、面倒から逃れるための指針になりそうな主張の組み合わせは、実は、あなたを「勤勉」の側に引き戻すイデオロギーに帰結するのではないかということです。

たぶんこれは、頓知の定式化で切り抜けるられる案件ではない。

私は、さしあたり、「ある事柄が無駄であるか無駄ではないか、ということは事後的にしか判定できないので、事前に吟味するのは無駄である」とは考えないし、「無駄なことをやることこそが必要だ」とは主張しない。