「青春」という方法

「今までの自分をリセットします」

という趣旨のコメントをしばらくタイムラインの冒頭に掲げていたので、受賞と渡英を機に、今までへその緒のようにくっついていた音楽美学の看板をリセットしてゼロカウントにして、これからは感性学とゲーム研究で行きます、ということなのかと思っていたのだが……、それにしては、むしろ「リセット後」の現在のほうが、これまで以上に、音楽美学時代の友人や後輩に直情的にコミットするようになって面食らう。

どうやら、リセットの意味が違っていて、就職から2015年に至る日々は「本当の自分」じゃなく色々なこともやらされたけれど、そういうのは全部なかったことにする、そしてこれからは、学生時代と現在を直結した「方法としての青春」でいきますよ、ということであるらしい。

だから、エリート校の一部集団が徒党を組んで学内をオラオラと闊歩するかのような振る舞いも、これからは遠慮なく復活しますよ、ということになるようだ。

ま、いいけどね。

私には、それは「青春の普遍化」(シューベルトはしばしばそういう風に受け止められる)というよりも、「制度としての学校」(そこには歴史の産物に過ぎないものが色々含まれる)へのノスタルジックでファナティックかもしれない無上の愛の表明に見えるけれど。

「青春」という方法が、加齢につれて、次第に、「回春」へと変容するプロセスを生きる道を私は選ぶ、ということなのでしょう。学生時代、修士の最初の頃に着目していたのが「ヘーゲル左派のアナーキーとしてのハンスリックの青春」で、さらにその前の学部時代はジョン・ケージの人だったらしいですし。


(ちなみに、コンヴィクトという学校を出たあとで、フランツ・シューベルトは「誕生」する。彼はサリエリ先生やシュパウンとの関係だけで生きていたわけでは、もちろん、ない。)