読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

誤作動と機械運用のリテラシー

20年前に作られたプログラムが誤作動もしくは現在では不便な動作をしてしまうのだが、修正しようにもバイナリーがあるだけでソースコードが失われており、既に製造中止で部品を交換することもできない。

そういうことは、まあ普通に起きる。

例えば、20年前1990年代の大学生・大学院生が学んだ環境は、教員スタッフが代替わりして今は存在しなかったり、その人が「心の師匠」と私淑した学外の団塊おじさんは、もはや、事実上引退してしまっていたり、その当時の社会風俗、大学生・大学院生が夢中になったアニメとか?も、今では過去のエピソードであったりする。

そんな20年前のプログラムが、ありもしないところに「権威」を検出してしまうのは、さしあたり、設計当時はそれでよかったかもしれないけれど、今はそれでは通用しなかったりする。

それは、ごく普通に機械の問題、機械とはそうしたもの、なわけだが、もし、そのような機械の判断を「現に今もこの機械は動いているのだから、この結果を誤りであるとはいえない」と言い張るのは、そのように言い張る人間の問題だろう。

しかもそれは、1990年代に大学生・大学院生として学んだ世代や集団に共通する問題であるというよりも、「機械」(「学問の日本語」や「行政の日本語」も、人間にとって一種の機械である、と見る立場は十分あり得る)のリテラシーが低いその個人の事情に分類されそうだ。